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随筆 屁の話

(1)漢字の解説
 おならを意味する「へ」は、漢字では「屁」と書く。この漢字の部首は、尸(しかばねかんむり)である。比は「人+人」の会意文字で、狭いすきまを残して二つのものが並ぶ意を含む。屁は「尸(しり)+音符比」の会意兼形成文字で、しりの両壁の並んだ狭いすきまからもれ出る「へ」を意味する1)
(2)屁の音韻
 この漢字の音は、呉音・漢音ともに「ヒ」である。中古音(隋・唐)は、発音記号で書くと[p‘ii]であり、現代の北京語では[p‘i]である1)。この記号[‘]は、有気音(息を強く吐く音)を示す。筆者が以前記したように、漢字が導入されたころ(万葉仮名ができる以前)「ハ行」は今でいう「パ行」の発音をしていた2)。ということは、漢字「屁」は「ピ」と発音していたことになる。平安時代に編纂された「新撰字鏡」3)及び「類聚名義抄」4)の写本の一つである「観智院本」5)によれば「屁」の古訓は「ヘ」である。漢字「屁」導入時の音読みが「ピ」であったということは、これがおならの擬音語であったと考えてよい。
(3)名詞+動詞「屁放る(ヘヒル)」
 また「和名類聚抄」6)及び「観智院本」には「へひる」という語句が見られる。前者には「屁、倍比流(へひる)、下部出気也」という記述がある。すなわち万葉仮名では「屁」は「倍」と訓読みされていたことになる。また鎌倉時代に編纂された「古今著聞集」7)には「へをひる」が登場する。
(4)音韻変化
 日本語の[p]音は奈良時代には[Ф]音に変化していたと言われているので、漢字「屁」の導入時の音は[Фi]すなわち「フィ」であったと推定される。その後、[Фi]は[hi](ヒ)に変化して現在に至っているが、「屁」を音読みしたことばは、「放屁(ホウヒ)」くらいで、ほとんど訓読みの「へ」が用いられている。
(5)漢字音と古訓の関係
 また平安時代の古訓の「ヘ」はもっと時代をさかのぼれば「ペ」であって、漢字音「ピ」と訓音「ぺ」とが共存していたのか、古代の大和言葉として「ペ」が存在したのか、それともまず漢字の発音「ピ」が導入され、これがその後「ぺ」に音韻変化して訓音とされたのかは定かでない。なお、上記「和名類聚抄」及び「観智院本」は、平安時代に編纂された辞書なので「ヘヒル」は[ФeФiru]と発音されていたと考えられるが、時代をずっとさかのぼれば「ペピル」と発音されていたのかどうか興味のあるところである。
 「へひる」は、漢字仮名混じりで書くと「屁放る」であるが、昔は実際にどう表記されていたのであろうか?手元の古語辞典8)の見出し「ひ・る【放る】」には引用例として「へを―・るよりほかの事なかりけり」[著聞一六]が挙げられている。この引用例で使われている漢字は「事」のみなので、「ひる」も漢字を使わず、仮名のみで表記されていたと推測される。
 ところで、ふつう日本語で動詞から名詞が派生する場合、動詞の連用形が当てられる(例:光る→光、動く→動き、話す→話等)。古語の動詞「ヒル」は、ラ行四段活用で、連用形は「ヒリ」であるが、「ヒリ」は「屁」の意味に使われていない。したがって「ヘヒル」に対してこの原理は当てはまらない。この動詞「ヒル」は、単に名詞「屁」の音読み「ヒ」に「ル」を付けて動詞化したものなのであろうか?漢字語の名詞に動詞「スル」(文語では「ス」)を付けて動詞化する(例:属する、対比する)のがふつうなので、古語としても「ひす(屁ス)」の方が自然であるはずだが、このような動詞は存在しない。したがって「ヒル」は純粋の和語なのであろう。現代日本語では、名詞+「る」の形式の動詞として「愚痴る(グチル)」「野次る」「告る(告白するの意)」「デモる」などがあるが、これらは俗語として扱われている。
(6)屁を意味する外国語
 「屁」及び「屁を放る」について外国語では、どういうか調べてみよう。
中国語:屁(pi、ピ)[p‘i]及び放屁(fangpi、ファンピ)[fɑŋp‘i]
朝鮮語:방귀(panggwi、パングィ)[pa꞉ŋɡwi]及び방뀌다(pangkkwida、パンクィダ)[pa꞉ŋk’wi꞉da] この방귀(panggwi)の漢字は「放気」で、漢字「気」は昔はgwiと発音されていたが、現在はgiの発音に変化している。panggwiという熟語については、「気」は昔の発音が保たれている。
英語:fart(ファート)[fɑ꞉rt]及びlet a fart(レットアファート)[let ə fɑ꞉rt]
ドイツ語:Furz(フルツ)[fʊrts]及びfurzen(フルツェン)[fʊrtsən]
フランス語:pet(ペ)[pɛ]及びfaire un pet(フェールアンペ)[fɛ꞉r œ̃ pɛ]
スペイン語:pedo(ペド)[pedo]及びpeer(ペール)[pe꞉r]
ロシア語:гaзы (gazwi、ガズィ)[gazɨ]及びпepдеть(ペルジェーチ)[pjerdjet]
 これらを見ると中国語、フランス語及びスペイン語では「屁」にあたることばが子音[p]で始まっており、英語及びドイツ語では[f]で始まっていて、これらが擬音語であることが分かる。ロシア語では「屁」は、英語のgasと同系統のことばであるが、「屁を放る」ということばは1単語の動詞で、子音[p]で始まっているので、やはり擬音語である。朝鮮語については、「屁」にあたることばがp音で始まるが、上述のようにこれは「放(pang)」からきているので、他の言語のような擬音語ではない。
(7)屁の河童
 「屁」というと「屁の河童」ということばを思い出す。「何でもないことを簡単にやってのけること」が、このことばの意味である。その由来は、「木っ端の火」にある。火を起こす時に、木っ端と呼ばれる木屑や鉋屑を使うとすぐに燃え上がるが、すぐに燃え尽きてしまう。そのため儚いものを「木っ端の火」と呼んだ。江戸っ子の洒落で、種はネタというようにことばをひっくり返して呼ぶのが流行した時代に、「木っ端の火」をひっくり返して「ひのこっぱ」となり、これが転じて「屁の河童」になったと言われている。
(7)便所の落書き
 ある便所に「七つ八つ音はすれども空吹きの実の一つだに出ぬぞ悲しき」と落書きしてあったことを思い出す。これは、若き日の太田道灌が蓑を借りるべくある小屋に入ったところ、若い女が何も言わず山吹の花一枝を差し出したので、道灌は怒って帰宅した。後に山吹には「七重八重花は咲けども山吹のみのひとつだになきぞ悲しき」の意が託されていたのだと教えられ無学を恥じたという話に由来する。これの替え歌が、便所に落書きされていたわけである。それにしてもなかなかよくできた替え歌だと思う。
1)藤堂明保編「学研漢和大辞典」学習研究社1998
2)本ウェブサイト「日本語における漢字の発音の歴史」
3)新撰字鏡は、平安時代の昌泰年間(898~901年)編纂された漢和辞典
4)類聚名義抄は、11世紀末から12世紀頃に日本で成立した漢字を引くための辞書。
5)観智院本は、類聚名義抄(るいじゅみょうぎしょう)の今日に伝わる写本の一つ。
6)和名類聚抄は、平安時代中期(931~938年)に編纂された辞書で、今日の国語辞典、漢和辞典及び百科事典の要素を含んでいる。
7)古今著聞集は鎌倉時代、13世紀前半の人、伊賀守橘成季によって編纂された世俗説話集。
8)久松潜一・佐藤謙三編「角川新版古語辞典」角川書店1973
 

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