HOME » 日本語 » 豆知識 » 替え歌

替え歌

 替え歌とは、メロディやリズムを可能な限り変えないようにしながら、本来その歌に付けられた以外の歌詞を作詞して歌うこと、またはそれによって歌われる歌のことである。「替え唄」とも表記される。
 以下に替え歌をいくつか紹介する。
(1)小学唱歌
 <青葉繁ちゃん昨日は色々お世話になりました。わたくし今度の日曜日東京の女学校に参ります。皆さんよくよく勉強してお偉いお人におなりなさい>
 この替え歌がいつ出現したかは分からないが、筆者は母から昔の女学校時代の歌と聞いている。母の年齢からすると、少なくとも1930年の前半に歌われていたことになる。
 本歌は落合直文作詞、奥山朝恭作曲(1903)小学唱歌「桜井の訣別」であり、別名を「青葉茂れる桜井の」又は「大楠(だいなん)公(こう)の歌」ともいう。楠木正成(まさしげ)と正行(まさつら)の親子の別れを詠んでいる。
 歌詞は次のとおり。
 <青葉茂れる桜井の里の渡りの夕まぐれ、木の下蔭(したかげ)に駒とめて世の行く末をつくづくと忍ぶ鎧の袖の上に散るは涙か、はた露か> 
 少し歴史を調べてみよう。
 楠木正成(1294~1336)とは、鎌倉時代(1185~1333)末期から南北朝時代(1336~1392)にかけての武将。後醍醐天皇を奉じて鎌倉幕府打倒に貢献し、足利尊氏らと共に天皇を助けた。尊氏の反抗後は南朝側の軍の一翼を担ったが、湊川の戦いで尊氏の軍に破れて自害した。明治以降は「大楠公」と称された。
 この歌詞の背景として、1336年の湊川の戦いにおいて、本拠地である河内の国桜井まで進軍して来た楠木正成は意を決し、息子正行を呼び、先年、天皇より賜った刀を差し出し、これを我が形見にせよと言い残し、「老いた母の元に帰れ」と告げ、両者は泣く泣く別れ行く。これが「桜井の訣別」である。
 明治時代には、皇国史観のもと天皇に忠義を尽くした楠木正成が「忠臣の鑑」として讃えられてこの「桜井の訣別」の歌ができ、よく歌われたため、この替え歌が出現するに至ったと考えられる。
(2)文部省唱歌
 <朝も早うから弁当箱提げて、家を出て行くお爺(じ)んの姿、靴下ボロボロ、地下足袋はいて、ひげはボウボウ、頭は百ワット>(筆者子供時代友達に聞く)。
 本歌は、文部省唱歌、時雨音羽作詞、平井康三郎作曲「スキーの歌」(1933)
 <山は白銀、朝日を浴びて、滑るスキーの風切る速さ、飛ぶは粉雪(こゆき)か舞い立つ霧か、おおこの身も駆けるよ駆ける>
(3)和歌
 <七つ八つ音はすれども空吹きの実の一つだに出ぬぞ悲しき>(筆者がトイレの落書きで見付けた)。
 本歌は、『後拾遺集』にある<七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき>であって、太田道灌の逸話に登場する。すなわち道灌が鷹狩に出て雨に遭い、蓑を借りようとしたとき、若い女に山吹を差し出され、それが『七重八重花は咲けども山吹のみの一つだになきぞ悲しき』という古歌の意だと後で知り、無学を恥じたということである。
 因みに太田道灌は室町時代後期の武将(1432~1486)で、この山吹伝説の地は埼玉県越生町(おごせまち)とされているが真偽のほどは不明である。
(4)小学唱歌
 <白地に黄色くババ色染めてああきたないや、お父ちゃんのふんどし>(筆者子供時代友達に聞く)。
 本歌は尋常小学唱歌、高野辰之作詞、岡野貞一作曲「日の丸」(1911)
 <白地に赤く日の丸染めて、ああ美しや日本の旗は>
(5)もじりことば
 <立てば借金、座れば家賃、夜逃げするにも電車賃>(筆者が2011.1.22テレビネコチャンネル「ミナミの帝王」のセリフで聞いた)
 これは替え歌ではなく一種の駄洒落のようなものである。
 本歌は<立てば芍薬、座れば牡丹、歩く姿は百合の花>という女性の美しさを歌ったもので、江戸中期の滑稽本『無論里(ろんのないさと)問答』(1776)に舞踏歌として「立(たて)ば芍薬座居(とい)すりゃ牡丹あるく姿は山丹(ゆり)の花」が紹介されている。これが言い換えられたものであろうか。
 

MENU

Copyright(c) 2017 TECHXEL All Rights Reserved.