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韓国歴史ドラマと立憲君主制

 筆者が視聴した韓国の歴史ドラマの中で立憲君主制又は民主主義を思わせるものが二つある。
 その一つはドラマ「鄭道傳(チョンドジョン)」である。これに登場する鄭道傳(1342~1398年)は、立憲君主制に近い政治体制を提唱している。彼は高麗王朝(918~1392年)末期の1360年に科挙試験1)に合格後、官吏となったが、権力者李仁任(イイニム)の親元反明の政策に反対したため流刑となった。流刑地で農民たちの悲惨な生活を目の当たりにし、政治改革の必要性を痛感した。彼は、いったん政界に復帰したが、重臣達の私地を廃止して農民に分け与えるというような過激な政策を提案したことなどによりその後も幾度か流刑に処され、また政界に復帰するというようなことを繰り返した。
 彼はこの腐敗した高麗王朝を立て直すには、新しい国を建てるしかないと考え、当時朝鮮の東北地方を統括していた武将である李成桂(イソンゲ)を担ぎ出し、紆余曲折を経て1392年李氏朝鮮王朝建国に成功した。李成桂が初代の王太祖(テジョ)である。鄭道傳は、新王朝で太祖を凌ぐとさえ言われる絶大な権限を手中にした。彼が取った政策は革新的なものが多く、たとえば重臣たちが私兵化した軍隊を徐々に解体し国軍に改編したこと、貴族たちの独占する私田を廃止し、土地を農民に再分配し、農民の幾重もの税負担を解決したこと、などが挙げられる。
 また「民こそが国の根本であり、政治を行う王や士族は民のために存在するもの」とした。彼が提唱した最大の改革は、「王には政治の実権を与えず、国家の象徴としての地位に就かせ、優秀な人材を登用して政治を行わせる」というものであった。王を国家の象徴とする理由は、過去の王は世襲制であったため、ある時には賢君が現れるが、ある時には暴君や愚君が現れ、また王権争いが絶えず、世相が安定しないために、民が久しく安寧な生活を送ることができる世の中がなかなか到来しないということである。
 これに対し、李成桂の息子達は当然ながら猛反対し、鄭道傳の権限がどんどん広がっていくことに対して危機感をもった。中でも将来王になることを目指していた李石桂の五男である実力者李芳遠(イバンウォン)は、強力な王権こそが社会の安定をもたらすと考えており、鄭道傳と激しく対立した。鄭道傳は李成桂の末息子李芳碩(イバンソク)を太子に指命し、李芳遠を遠ざけた。しかしその後李芳遠の軍勢に殺された。李芳遠は後の三代王太宗(テジョン)である。
 
 もう一つのドラマは、「秘密の扉」で、これに登場する朝鮮王朝第21代王英祖(ヨンジャ)(1694~1776年)の第二子思悼世子(サドセジャ)2)(1735~1762年)が、立憲君主制とまでは行かないが、上記鄭道傳の言う「一般人から募った優秀な人材を登用して政治を行わせる」という思想をもっていた。
 彼は、父英祖の健康状態が悪化したため14歳の時から政治の一部を任されていたが、ある日ある事件のことを耳にする。「科挙替え玉受験」事件である。調べてみると、替え玉を依頼したのはある両班(ヤンバン)3)で、替え玉を請け負ったのは平民の男であった。この男は元々学問が好きで、平民の自分に科挙の受験資格がないのを知りながら勉強を続け、科挙に合格できる実力を備えていた。知り合いの両班から替え玉受験を頼まれ、断り切れずに受験して合格したが、不正が発覚し投獄された。思悼世子は、獄中にこの男を訪ね、事件の一部始終を聴いたあとで彼を釈放させた。
 この事件をきっかけに、彼は科挙に合格するような優秀な人材は、両班の中だけではなく平民の中にも大勢いるはずだということに思い至った。彼の政治的信条は、「民を幸せにする」ことであり、両班だけではなく平民出身の優秀な人材を官職に登用すれば、民の幸せを重視する政治が行えるだろうと考えた。
 そこで彼は、朝議の席で、これまで両班にしか許されなかった科挙の受験を平民にも許可すると発表したが、王の英祖を初め重臣達は猛反対した。王は、思悼世子を呼び付け、「我が朝鮮王朝は、主君の下に両班が政治を行い、農民が米を作り、職人が道具を作り、商人が商いをするということで秩序が保たれており、これを改革することにより平民が実権を握るようになれば世の中が大混乱に陥り、はては朝鮮王朝が滅亡するかもしれない」と主張し、激怒した。また、いつの世でもそうであるが、政治に携わる人は新しい政策を実施するかどうかについて、それが自分の利益になるかどうかを判断基準とする。重臣達は、平民出身の優秀な官吏が登用されれば、自分達が職を失うことを恐れて、この政策に猛反対したのである。思悼世子は、世の中が大混乱に陥るというが、それは逆で民は大喜びし、民の日頃の不平や不満が抑えられ、民心が安定すると考えたのである。
 ただし、重臣達の中には思悼世子の考え方に賛同する者も幾人かいた。科挙試験の当日会場の門は閉じられたが、門前に民衆が押し寄せ平民にも科挙を受験させてくれるよう大声で訴えた。会場の内部には、思悼世子およびその賛同者がおり、門を開かせ、受験希望者の入場を許可した。そして両班と平民との科挙試験が開始された。即日採点が行われた結果、両班と平民の合格者はほぼ同数であったが、平民を登用することは実現できなかった。
 その後も思悼世子は、平民の政治への参加を諦めきれず、都から離れた土地に「書斎(そじぇ)」(科挙受験のための学問をするための塾)を設立した。ここでは平民だけでなく賎民までもが学習することを許された。思悼世子はここに私金を投じたため、当時朝廷の実権を握っていた老論派(のろんは)から逆賊と見なされ、老論派は王にすぐ世子及び世孫(将来王に就くことを定められた王の孫)を処刑するよう要求した。王は悩みに悩んだ末、世子を処刑する代わりに世子の息子である世孫を生かすことで重臣達を納得させた。
 1762年7月、父英祖に見守られながら世子は屋外で米櫃に入り、施錠され、8日後に餓死した。なおこのドラマでは、王からも重臣からも世子を米櫃に閉じ込めよと発言したシーンはない。処刑する方法はいくらでもあるのになぜこういう方法を取ったのか不明である。
 思悼世子の妃である世子嬪は、思悼世子が父英祖との葛藤で精神を病むようになったと随筆に記しているが、ドラマ「秘密の扉」ではそのようなことは一切描かれていない。思悼世子は、いくつかの韓国歴史ドラマに登場するが、彼は生まれつき父親と性が合わなかったようで、彼がどんなに優れた提言をしてもそれを受け入れず、理不尽ないじめに合っていたようである。また、彼が民を思い、両班のみならず広く平民や賎民にも科挙を受けさせて優秀な人材を募ろうとしたことも他のドラマでは描かれていない。「米櫃」事件は一種の謎めいたスキャンダルで、これはすべてのドラマのクライマックスとして登場する。
 鄭道傳の思想はほぼ史実に基づくもののようであるが、思悼世子の思想も史実に近いとすれば、14世紀及び18世紀の朝鮮でこのような民主主義的思想を抱く重臣や王族が現れたことは注目に値する。因みに英国で立憲君主制と議会制民主主義が確立されたのが17世紀である。
 最後に鄭道傳と思悼世子の思想を比較して見よう。
  (1)鄭道傳と思悼世子の思想の似ている点
   民こそが国の根本であり、万民を幸せにするための政治を行う。これは民の困窮した生活
   を目の当たりにし、すべての民が幸せに暮らせる国を作るべきであるという考えに基づく。
  (2)鄭道傳と思悼世子の思想の異なる点
   鄭道傳は、王を国の象徴と見なし、登用した優秀な人材に政治を行わせるとしているが、
   思悼世子はそこまでは思い至っていない。また思悼世子は賎民にも科挙の受験を許可する
   としているが、鄭道傳はそこまでは考えていなかったようである。
 なお、鄭道傳と思悼世子とは、既存の政権からみれば反体制派であって当然その思想が受け入れられるはずもなく、両者とも殺害又は処刑される結果となっている。
 さらに鄭道傳が、君主を象徴として扱うという意味で立憲君主制に近い思想を抱いていたことは史実のようだが、両班だけではなく平民まで科挙の受験を許可したのではなかったようである。思悼世子がこのようなすべての民に科挙の受験を許可するという思想を抱いていたことを描いたドラマは「秘密の扉」だけで、このドラマの作者が何らかの史実からヒントを得たものと思われるが詳しいことは分からない。

注記
1)中国で598年~1905年、即ち隋から清の時代まで、約1300年間にわたって行われた官僚登用試験である。朝鮮半島の高麗や李氏朝鮮でも、中国式の科挙が導入されていた。
2)彼の死後英祖が贈った諡(おくりな)は、「思悼」から始まり「荘献世子」で終わる合計30文字の長いもので、荘献世子(チャンホンセジャ)が正式の名前であるが、思悼世子とも呼ばれている。諱(いみな)(生前の実名)は李愃(イソン)で、彼の嫡男が韓国ドラマで有名な李祘(イサン)第22代王正祖(チョンジョ)である。
3)両班は、高麗王朝及び李氏朝鮮王朝時代の官僚機構・支配機構を担った支配階級の身分のことで、李氏朝鮮王朝時代には王族以外の身分階級の最上位に位置していた貴族階級に相当する。
 

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